絵画教室もしばらくは自粛でなさそうです。
ということで、我流ではありますが水彩画、描いてみました。写真を見ながらの描き込みです。
簡単な構図だったので90分ぐらいの作業時間でしょうか。
やっぱり空が難しい。綺麗なグラデーションにしたかったのですが、ご覧の通りムラが出てしまいます。本来なら水で画用紙を濡らしてから(つまりウエットにしてから)絵の具を乗せなければならない(いわゆるウエットオンウエット)のですが、横着をしてそのまま絵の具で描いてしまいました😅
後は、朝靄の雰囲気が難しいですね。山肌に登っていく靄を描きたかったのですが、山肌が単なるムラに見えてしまいます。水面近くのみで靄を表現すべきでした。
また、手前の山は緑が入りすぎですね。
船の灯りは、まずまず表現できたかなぁ?このハイライトは、ガッシュのホワイトにレモンイエローを足したもの。ガッシュというのは、透明水彩ではなく、不透明水彩のことで、上塗りしても下地の色を通さないので、とっても重宝します。(ガッシュについては最近、知りました😅)
手前の漁の仕掛けは、少し描きこみすぎですね。主張しすぎでした。
ということで、写真をそのまま描いていては、感動する絵にはならないのですね。もっと精進いたします。
塩津について
ここ塩津は、びわ湖の最北端の町で、古い街並みがとっても素敵なところです。何か湖北特有の空気感があってとても心が落ち着くところなのです。以下はネット情報です。
平安時代初期から、越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の6ヶ国からの貢物はいったん敦賀に集められ、それから陸路(塩津街道)で塩津(ないしは海津)に運び、そこから湖上で大津に輸送、京都へ運ばれました。つまり、古くから琵琶湖は湖上交通路として大きな役割を果たしてきました。
塩津浜村の天保9年(1838)の戸数は199軒・人数792人で、塩津浜には本陣・問屋がありました。江戸時代初期にも平安時代からのルートと同じで、北国から都へ送られてくる貢物は敦賀から塩津街道で塩津まで運ばれ、湖上交通で大津まで、そして都まで運ばれたため、塩津街道は日本海地方と都を結ぶ大動脈であり、塩津浜はたいへん栄えました。北国諸藩から京都・大坂へは年貢米やニシン・海藻などの魚介類が送られ、京都・大坂から北国諸藩へは陶磁器、反物、着物などが琵琶湖上を盛んに丸子船で運搬されました。
寛文12年(1672)西廻り航路が開かれ、敦賀・塩津・大津を経由することなく、北国の諸貨物が、瀬戸内海を通って直接大坂に陸揚げされるようになると、塩津は徐々に幹線交通路としての地位を奪われ衰退していきました。
ということで、そんな要所であった塩津浜ですが、今ではひっそりと、ただただ風情を感じる場所になっています。また外出できるようになったら行きたいですね。
今日はここまで。お付き合いいただきありがとうございます。
ではまた〜 バイバイ❣️